2013年03月03日
昨日、中標津で
昨日は中標津へ用を足しに出かけた。
午前中はずっと雪かきしていたのだけれど、ネコの餌がなくなってしまったので。
このへんでは隣の隣町、中標津まで行かないといわゆるスーパーがない。
18時近くなって携帯が鳴った。らうす峠茶屋の石見 公夫さんからだった。
「バスを待っているが遭難しそうだ」
「18時半には国道が通行止めになる」
中標津町から標津町まででもゆうに30分はかかる。
「わたしも中標津で行けません。峠茶屋に泊まれますか?」
大丈夫だというので、わたしとかみさんも中標津のホテルをiPhoneで探す。
チェックインしてもネコが気になる。
「二~三日食べなくてもネコは死なないから」となだめる。
2001年の12月30日にやはりひどい吹雪で遭難しかけたことを思い出す。
忘れもしないハリポタ映画の第一弾を釧路に観にいったのだ。
ホワイトアウトどころではなく、道路の矢印が見えない。
白いものがフロントガラスの向こうをぐるぐると、また逆周りにぐるぐると。
このクルマが地面に着いているのか、はたまた逆さになっているのか、わからない。朝までエンジンをかけていられたのは、ちょうど薫別にトンネルができた当時であり、やっとそこまでたどり着くことができたから。
そこで家族四人一夜を明かした。
(1月5日までガソリンスタンドが休みという時代だったためどこにもいけない正月になったわけだが)
今回はホテルで過ごし、結局、あけて3日の12:00にゲートがOPEN。
中標津ではそのあいだに、家族4人がクルマの中で一酸化炭素中毒で死亡。
23歳の女の子が家まで300mの地点で凍死。
われわれも、石見さんの電話がなければ、羅臼へ向かっていたはず。
2001年のように、トンネルまで必死でたどりつけなければ、おなじようになっていたかもしれない。
生死は紙一重の差であり、表裏一体にそこにある。
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